なぜ彼女は処女膜で歌ったか

つまり、何故アシカは鹿ではないか

一重まぶたをこれまでにないくらい熱狂的に愛する会

一重まぶたが大好きだ。


私は一重まぶただ。現代を生きる女にとって一重まぶたであるというのは、致命的なことである。


世の中には、二重まぶたがどれだけ「カワイイ」「素敵」かという文章は溢れているが、一重まぶたがどれだけ素晴らしいかという文章はほとんどない。

女性の世界では、一重まぶたはいつでも「アイプチされるべき」であり、「整形されるべき」であり、「誤魔化されるべき」存在として扱われている。

一重まぶたをダメとは言わなくても、「一重まぶたでもいいじゃん」と言った具合。

「でも」って何だよ「でも」って。「一重まぶたこそいいじゃん」と言えないのか。


流行でないから誰にも言えないというなら、私が言ってやろうではないか。一重まぶたは最高である。

よもや一重まぶたに魅力がないと思っている風流を解さない痴れ者はここにはいないと信じている。

言うまでもなく、一重まぶたは風流である。雅である。

平安の美であり、公家の顔であり、絵に描かれる顔であり、仏の顔である。

糸目、これはまさに日本が古くから誇る美の感覚である。

余計な襞のない清廉なまぶたは、さながら夏に吹く爽やかな風である。

瞳にかぶさる重たいまぶたは、世の中をあけすけに見ない優しさの証。


一重まぶたの人の多くは、目頭が「蒙古襞」と呼ばれる皮によって覆われているが、これも日本古来の美といった様相で素晴らしい。

肉のかたまりを外部に見せず、そっと隠すという日本の作法が生きている。

一重まぶたは、男性にも女性にも美しい。

一重まぶたの男性は、キリリとした意志の強い瞳をしていながらも、目尻のあたりに曖昧な隙ができるのがたまらない。

重いまぶたの間から、彼の瞳の色を垣間見た時の喜びは、天の岩戸の間から天照大神が姿を見せた、その光に照らされる喜びである。

一重まぶたの女性は、甘くない。媚びない目元である。

しかしその瞳には、御簾の向こうの平安の姫君のような、向こう側を覗いてみたくなるような誘惑が漂う。

一重まぶたの女性の流し目は、光源氏が桐壺に見出した魅力の片鱗を、今も現代に伝えてくれる。

これが二重まぶただとどうだろうか。

まぶたに余計な線が入っているだけではなく、世の中をギョロギョロ見る不躾さ。

夏に出会おうものなら暑苦しくて汗をかくような鬱陶しさ。

開きすぎた瞳はもはや恐怖を感じる。二重まぶた、いとわろし。

しかし最近の世の中、二重まぶた礼賛である。

地味で控えめな印象が漂うたおやかな一重まぶたの女性は、目立つことを要求される芸能人には向いていないかもしれない。

しかし一般人女性まで「二重じゃないと可愛くない」と言い出す。

女性誌は「一重まぶたでもデカ目になれる!」と銘打って、アイプチやプチ整形を紹介する。

(恐らく何が一重まぶたで何が二重まぶたなのか理解していないであろう)男性も、「一重まぶたはブス」と宣う。

加えて一重まぶたの人間は、「何を考えているかわからない」とか「目付きが悪い」とか、ありもしない嫌疑をかけられる。

こうして、一重まぶたの人間は自信をなくす。

そのような必要なんてないのに!一重まぶたこそ何よりも美しいのに!スーハー!スーハー!一重まぶた!!クンカクンカ!!一重まぶたたんクンカ!!重たげなまぶたのお肉モフモフしたいお!!モフモフ!!お口に含みたい!!ムシャムシャ!!ムシャムシャハァハァ!!ハァハァムシャムシャ!!さみしげな目尻ペロペロベロベロォ!!!じゅるりじゅるりぃ!!

このような悲劇はもちろん、一重まぶたの人間のせいではない。

二重まぶたの人間が風流を解さなくなったのが悪いのである。

日本古来の雅がこうまで失われてしまったのは、誠に嘆かわしいことか!

一重まぶたの人間とその愛好家は、日本の風流を解する最後の砦となってしまった。

我々は、この日本の美を解する心を大切に保ちながら、

一重まぶたを、いや、古き良き物を愛するという生き方を、礼賛していかねばならない。

だから私も、誰に罵られようと、自分は美人だって言い続けるよ・・・