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なぜ彼女は処女膜で歌ったか

つまり、何故アシカは鹿ではないか

体罰が1人の女の子をどう変えたか

※非常に暗いですが、意味のあることを書こうとしています。

※虐待を受けた経験がある方にはトリガーになるかもしれません。ご注意を。

 

 

ちょっと前に、体罰の可否が話題になっていましたね。

既に時代に乗り遅れている感はありますが、当時から考えていることはあって、何だかそれについて書きたかったので書きたいと思います。

私には政治的なうんぬんかんぬんとか、教師のああだこうだはよくわかりません。なのであくまで親子の関係での体罰の可否についての意見を書きたいと思います。

しかも子供を生んで育てているわけではないので、親の苦しみは全くわかりません。あくまでも子供の視点しか書くことができませんが、それはそれで意味があると信じたいと思います。

 

多くの人は「体罰はやってもやらなくてもいい」とか「体罰はしない方がいいが、やったとしても子供に理解してもらえればいい」という、体罰肯定と体罰否定の中間の意見なのではないかと思います。

その根拠としては、「自分は受けたがきちんと育ったから」とか「昔は教育=体罰で、何の問題もなかったから」というものをよく見ます。

私は全く別の考え方をしていて、体罰全否定派です。体罰はどんなことがあっても絶対にすべきではない、という考え方です。

 

もう想像がついているかと思いますが、私は体罰を受けて育った子供でした。

具体例を挙げることで自分の受けた体罰を上手く説明できるとは思えませんが、最も過激なものでも蹴りがお腹にクリーンヒットして飛んでいったとか、罰として1週間靴用のウォークインクローゼットで生活したとか、そういう程度の物です。

勘違いしないでいただきたいのは、これはあくまでも最も過激な2例であって、普段からこういうことをされていたわけではない、かくして自分の中ではこれは虐待ではないと認識していることです。

私は何も理由がないのに体罰を受けたことはありません。私は自分が受けた暴力を不当なものだったと糾弾したいのではなく、体罰によって起こった自分の感情や行動の変化を書き起こしたいのです。

 

私は自分でもビビるぐらい手のかかる子供だったのは間違いなく、小学校の時に算数のテストで0点を取ったり、テストを半分しかやらなかったり、習い事の練習をサボったり、自分でもこんな子生みたくないわと思うような女の子でした。

初めて叩かれた時のことは覚えていません。物心ついた頃には罰としてビンタが飛んでくるものだという認識がありました。

さて繰り返しますが、こういう文章を読んだときには、想像力がかき立てられて虐待を疑いがちです。しかし罰としてビンタをするような家庭は日本中に山ほどあるわけで、その全てが問題を抱えているわけでもなく、信頼関係がないわけでもなく、素敵な大人が育たないわけでもないのです。私の体験は、あくまで体罰センスのない親と、被体罰センスのない子が繰り広げた体罰肯定論の中の事故です。

そういう出来るだけ中立的なスタンスで、以下の振り返りを読んでいただければと思います。

 

 

1,暴力に対するモラルの低下

まず自分の小学生の頃のことを考えると、暴力とか暴言に対してのモラルが非常に低かったことを思い出します。

気に食わないことがあれば友達をすぐ叩く子供で、それが特に悪いことだと思っていませんでした。

友達にビンタするって今から思うとすごい話で、叩くときも思いっきりやっていいと思っていました。自分が親からされるのは思いっきりのビンタが普通だったから、当然相手も耐えられるだろうなと考えてやっていました。

一般的に言われるような、「殴られたことがない子供は相手の痛みが想像できない」というのは、私にとっては逆で、気に入らないんだから相手が痛くても当たり前的な、とんだ暴君の考え方でした。

小学校低学年の頃、同級生に「そういうことしない方がいいよ」と言われて初めて「普通の人は怒っても友達を殴ったりしない」ことを知りました。

 

 

2,自己尊厳の低下

次にやってきたのは、自己尊厳の低下です。これは小学校中学年くらいにこんなことを考えた記憶があるので、多分そのくらいに始まったのでしょう。

怒られた直後だけですが、「親にこんなに叩かれてもわからない自分、親をこんなに怒らせてしまう自分は親のために生まれてくるべきではなかった、親のために死んであげたい」というようなメンタリティになっていました。子供だからほとぼり冷めればケロッとしてて気楽なものですw

親は何となく「体罰を加えれば反省してくれるだろ」と思っているでしょうが、子供がその頭の中でどのような反省を繰り広げているかはわかりません。今振り返れば、何て病的な反省の仕方だろう、何て可哀相な子供なんだろうと悲しくなります。

これはものすごく長く続きました。その片鱗は今でも継続している(てか誰でも自分が死ねば良いと思うことはあるはず)と思いますが、「自分がこんなに反省する必要はあるのか」と疑問に思ったのは、中学2年生の時です。反抗期ですね。

しかし反抗期が到来したからといって突然親が変わるわけでもないし、自分が変わるわけでもないので、自己尊厳の低さは継続しました。むしろ思春期がやってきて加速的に下降していきました。

私はこうやって体罰を受けては反省しながら、自分を確実に病気にしていきました。いつでも自分はとっとと死ねばいいと思っていた過激な子供でした。

 

 

3,嘘の濫用

1,2と同時進行的に起こっていた変化として、嘘があります。

罪をおかせばきつい罰がくることを学んでから、私は病的に嘘をつくようになりました。怒られることを回避するためには、誤魔化すため、隠すために嘘をつきました。誰にでも嘘をつきました。友達の物でも盗みました。

この嘘つき娘は、高校卒業するまでは続きました。隠したいことが多くて。それぐらい事実を隠すことに依存していました。

子供は体罰を受けることでモラルを学ぶ、と聞くと私は笑ってしまいます。

 

 

4,体罰の終焉

体罰を全否定する派として特筆したいのは、体罰の終焉の仕方です。

我が家の体罰は簡単に終わりました。私が抵抗したのです。正確な年はわかりませんが、高校入学までには終焉していた気がします。

親が子供に抵抗されたことで体罰が終焉する、これは無様なことです。体罰が正しいなら抵抗されたって継続できるし、すべきであるはずですから、そもそも暴力に全然正義はなかった、「やってもやらなくてもよかった」ということになるでしょう。

つまり「やってもやらなくてもよかった」ようなことを通して、私は自己尊厳を放棄し、嘘をつき、なんだかよくわからないけどビンタと暴言への耐性みたいな曖昧なものを獲得したことになります。

もちろん、今は正常に育っていて、健康で、お金も不足しておらず、過去のこともこうやって語ることができるようになっていますが、人間の人生をプロセスなく結果のみで論じるのは暴論のように感じます。

 

 

こういう実体験があって、私は現在体罰全否定派です。

体罰を実際に受けて余り上手いこといかなかった人間として言いたいのは、「体罰はやっちゃいけないけど、やってしまっても別に問題ない」というのは余りに無責任だということです。

子供を生んだことも育てたこともないのにこんなことを言うのは傲慢かも知れませんが、子育ては結果さえ良ければプロセスが全て肯定されるものではないと思うのです。きちんと育ちさえすれば、死にたがりの子供でも自分に責任はない、それは余りに危険すぎます。

そこで子供が何を感じたかは決して理解しえないと思うのです。12、3才の子供が「親の幸せのために出来の悪い自分は死んだ方が良い」と思っていたとしても、当の子供がそれを言わなければわからないでしょう。

子供だって1人の人間で、例え親でも決して子供のの気持ちは理解できないし、立場だって共感できないのですから、子供が何を感じているか予想ができません。結局、体罰がどういう影響を及ぼしたか、親はわかっているようで全然わかっていません。

特に幼い間は、親が世界の全てです。「死ね」と言われたら「このまま死のうかな」とすら思いがちです。私があの頃二階から飛び降りる勇気があれば、この記事はなかったかもしれません。それは余りに恐ろしく、しかし現実的な脅威として10年前存在していたのでした。

あなたの良く知る23才の女性の現在が、たった1人の中年女性によって風前の灯火になった時代があった、それを引き起こしたのが体罰であった、これだけで十分恐ろしいことだと思います。

こういうわけで、私は子供への体罰は反対です。特に記憶に残りがちな小学校中学年以降の体罰は命に関わると考えています。

 

もちろん、私は悪い例だという自覚はあります。きっと上手な体罰を行える体罰ソムリエみたいな親もいて、そういう親に育てられた子供は体罰を受けても体罰を肯定できるのかもしれませんね。1回ならOK、時々ならOK、加減の問題なのかもしれない。

私だってただの1人の子供ですから、他の人と比べたこともないし、比べようもないのでアレなのですが、体罰が上手くいかない反例のようなものとして、悪影響が本当に存在しないのか、少しでも考えるきっかけになればと思います。

「体罰は少しならいい」の「少し」ってどのくらいなのか、それは1年に数回ならいいのか、1ヶ月に1回ならいいのか、1週間に1回ならいいのか、など具体的に考える必要があると思います。

とにかく体罰は誰にでもできることではなく、センスがない親もいて、ポジティブに受け取れない子もいる、一筋縄で語りきれない大問題であるということが伝われば幸いです。

 

個人的に、余り思い出したくないし覚えていない子供の頃のことをこういう場所で書くのは初めてです。緊張はしますが、もう親に対する怒りがないので、開放感はありますね(少しでも痛々しくないように書くこともできるwww)。セクハラについての記事を書いたときにも思ったけど、自分の体験がもしかしたら役に立つかも知れないという希望があるだけで、何だか嬉しくなります。私は子供は産まないけど、誰かの役に立てばいいなあ。