なぜ彼女は処女膜で歌ったか

つまり、何故アシカは鹿ではないか

「おちんちんガールスカウト」について作文力総動員して書いたら4800字になった

 「おちんちんガールスカウト」という言葉をご存知だろうか。

 知っているとしたら、それは錯覚であろう。なぜなら、「おちんちんガールスカウト」なる言葉は存在しない。

 GoogleYahoo!で検索しても、ヒットするのは「ガールスカウト」の連盟のHPであり、それ以外には「おちんちん」と「ガールスカウト」を含む文章しかない。「おちんちんガールスカウト」という連なりでこの言葉を使用している例はない。つまり、「おちんちんガールスカウト」は、今この瞬間初めてインターネットに登場する語である(ちなみに「おちんちんボーイスカウト」も存在しないため、そちらが好みの人はそちらで考えてもらって構わない)。

 我々が日々使用している語句の中で、誰一人使ったことのない全くの新語、というのはなかなかあるまい。わざわざ使う意義も感じられないだろう。しかし今、私の目の前にこの「おちんちんガールスカウト」という語が鎮座している。意味はまだないが、何らかの意味を感じさせる能力を持っている。たったの12字の語句から、「WHY?」「WHAT?」、もしかしたら「HOW?」という疑問が止めどなく沸き起こるのを感じる。

 「おちんちんガールスカウト」は何故、こんなにも探究心を刺激するのか。何故、我々は「おちんちんガールスカウト」という語の前では、探索者にならざるを得ないのか。

 この問いを追求することは、一見無意味である。いや、何見したところで無意味としか思えまい。しかし、「無意味としか思えない」ないし「無意味である」ということは、実は意味を持っている。それは、我々が日常生活の中で繰り返す、諦めと見限りの始点に他ならないからである。

 「『おちんちんガールスカウト』という語について、構造的に紐解く」という命題に興味を持てないとしたら、あなたは既に退屈病に冒されていると言える。「おちんちんガールスカウト」という言葉が、その病の処方箋にはなるとは限らない。結局のところ、「無意味」の中に意味を見出すことができないかもしれない。しかしそうではないかもしれない。その可能性の揺らぎが、我々を「おちんちんガールスカウト」へと導く。

 一応断っておくが、あなたがこの文章を読み終わった時、「面白くない」と思ったとしても、それは私のせいではなく、あなたの病気である。私のせいにしないでほしい。こんなところで、導入部は終わりである。

 

<意味>

 知らない語について考える時、何はともあれ気になるのは、その語の意味である。「おちんちんガールスカウト」という言葉は、一見意味がありそうに感じる。何せ「おちんちん」と「ガールスカウト」の融合である。類推すらできそうだ。しかし意外にも、意味はない。

 「おちんちんガールスカウト」の無意味さは、少々特殊に思える。ここに「いじゃすぅぃぎバラッバン」という言葉がある。いや、厳密にはない。私が、今ここに「いじゃすぅぃぎバラッバン」という語を生み出した。意味はない。新たな無意味語の誕生である。

 「いじゃすぅぃぎバラッバン」は「おちんちんガールスカウト」と同じく、Web検索には引っかからない。しかし「おちんちんガールスカウト」を検索した時には、せめてもの慰めと「ガールスカウト」の検索結果だけは出してくれたのに対して、「いじゃすぅぃぎバラッバン」に至っては検索結果は0件であった。これは、Web検索くんから見ると、「おちんちんガールスカウト」は無意味語にも関わらず、何か意味を感じてしまったのに対して、「いじゃすぅぃぎバラッバン」は心底意味を感じられない無意味語であったことを意味する。人間から見ても同様であろう。「いじゃすぅぃぎバラッバン」に比べ、「おちんちんガールスカウト」の方が、何らかの意味を感じられそうである。

 「意味を感じられそう」ということは、人間の心の方から、何か意味を感じに行っている、意味を探しに行っていると言えよう。簡単に言うと、我々人間は「いじゃすぅぃぎバラッバン」より、「おちんちんガールスカウト」の方が好きであるということだ。私としては、「いじゃすぅぃぎバラッバン」は嫌いではない。何と言っても生みの親である。しかし「おちんちんガールスカウト」の方に、より魅力を感じてしまう。

 「おちんちんガールスカウト」の魅力の源は、思考する余地にあると私は考える。「おちんちんガールスカウト」には、自分の知識から意味を推定する楽しみがある。

 「おちんちん」と「ガールスカウト」が連なると、どのような意味になるのか。女の子達がおちんちんを楽しむガールスカウトだろうか。それとも、言葉を話すおちんちん達が所属するガールスカウトなのか。いや、「おちんちんガール」と「スカウト」の連なりと考えることもできよう。その場合、「おちんちんガール」とは一体なんぞやということについて、楽しい思惟の時間が待っている。

 「おちんちんガールスカウト」には、思考する楽しみがそこかしこに散りばめられているのがわかる。しかも、それが自分の持つ既存の知識を用いて行われるというのが、楽しみを更に増大させている。

 子供の頃は、クイズやなぞなぞに熱中したものだ。大人になってみると、なぜあんなにも楽しかったのかわからない。「おちんちんガールスカウト」は、クイズやなぞなぞとよく似ている。言ってみれば、ヒントはあるが答えのないクイズである。「おちんちんガールスカウト」から垣間見える楽しみは、実は子供時代の思い出と重なって輝いているようにも感じられる。

 「おちんちんガールスカウト」の意味について考える楽しみは、極めて遊び的な楽しみであると言えよう。

 これに対して、「いじゃすぅぃぎバラッバン」は、ほぼ意味の推測は不可能である。「いじゃすぅぃぎバラッバン」の意味を考える時、私たちはゼロからの創作を必要とされている。まず伝えたいことを考え、その意味を「いじゃすぅぃぎバラッバン」に載せる。あたかも芸術作品のように、自分の思想を載せていく。その過程は意義深いものであるが、苦痛も伴っている。

 我々が「いじゃすぅぃぎバラッバン」を敬遠するのは、芸術家の苦しみを無意識のうちに感じ取っているからかもしれない。「いじゃすぅぃぎバラッバン」の意味について考える気が起きないというのは、根底に芸術家的取り組みへの諦めが含まれている。そう考えてみると、「いじゃすぅぃぎバラッバン」は寂しい言葉である。

 

<音楽と絵画>

 前項では、「おちんちんガールスカウト」の意味について考察した。我々は、無意味な語の前に立った時、無意識のうちに意味を類推してしまう生き物である。しかも、「おちんちんガールスカウト」はただの無意味語ではなく、子供の遊びのような魅力を内包しているから、恐ろしく惹かれてしまう。

 では、無意識で行われる無意味語に対する意味の推測を、一度やめてみよう。「おちんちんガールスカウト」の意味を考えるのをやめ、その他の形質について考えてみようではないか。

 言葉には、意味がある。言葉は、意味があるからこそ使用されるし、使用する時点で既に意味があるものである。言葉が箱であるとすると、言葉の蓋を開けると、箱の中には必ず意味が入っているものである。
 しかし、「おちんちんガールスカウト」の箱は、空っぽである。「おちんちんガールスカウト」は、意味を持つ言葉達の向こう岸から、我々に何かを語りかけてくるが、彼らが語りかけてくる「何か」は、意味ではない。何度も言うが、「おちんちんガールスカウト」は無意味である。
 「おちんちんガールスカウト」の箱を、今、机の上において、もう一度眺めてみよう。「言葉」における箱、つまり意味を包み込んでいる入れ物の部分であるが、それは文字である。そして、読んだ時の音声である。「おちんちんガールスカウト」という文字と、「おちんちんガールスカウト」という音声である。

 「おちんちんガールスカウト」という空き箱を見つめるということは、文字を見つめ、音声を見つめるということに他なるまい。絵画を眺める時、そして音楽を聞く時のように、「おちんちんガールスカウト」を見つめてみる。そうすると、意外な魅力に気付くだろう。「おちんちんガールスカウト」は平仮名の丸みとカタカナの角ばりが、絵画として鑑賞の余地があるように見えてくる。「ちんちん」の韻とリズムは音楽として鑑賞の余地があるように見えてくるではないか。

 無意味語だけではない。全ての意味を持つ語が、同様に文字や音声を持っており、見つめる視点さえあれば、絵画になり、音楽となる。文字や音声には、意味を伝えるという重要な役割があるが、それ自体にも美が眠っているのである。

 我々は言葉の意味を巡って余りにも苛烈な戦いを日々行っている。しかし、一度息をついて、「言葉の箱」を机の上に載せてみよう。その絵画、その音楽を鑑賞してみよう。それらはもちろん現実の戦いを収束させはしない。しかし、我々の心に、明日も戦うエネルギーをくれるはずである。

 

<何の質感もない箱>

 前項では、「おちんちんガールスカウト」の絵画的・音楽的価値について考えた。いや、どんな言葉にも絵画的・音楽的価値がある。「おちんちんガールスカウト」という無意味語が、その美しさを写す鏡となったのである。

 では今度は、言葉の絵画的・音楽的な側面を考えるのもやめてみよう。言葉の意味を考えるのをやめ、言葉の文字と音声について考えるのもやめる。その時に、そこには何が残っているのだろうか。

 もう一度、言葉を、意味を収納する箱と考える。文字や音声を考えるということは、さながら箱の質感を考えるということであった。

 意味も文字・音声も考えないで「おちんちんガールスカウト」という箱を見ると、何が残るか。そこには、何の質感も持たない空き箱が残っている。文字も音もない、意味を収納する空間がある箱だけが残っている。いかなる感動を挟む余地もない、無特徴・無個性の空間。そこにあるのは、何かを収納できる可能性だけである。

 これが、言葉の最もプリミティブな形であろう。まだ言葉になっていない言葉の卵、言葉の赤ちゃんとでも言おうか。言葉は、何の意味も持たないただの区切られた空間に、意味と質感が付与されることで初めて誕生する。

 この区切られた空間は、一体いつから存在するのだろうか。言葉が発明された瞬間、この空間は既にあった。言葉が発明された瞬間、言葉が発明されることによって生まれたのだろうか?それとも、言葉が発明される前に生まれたのだろうか?前だとすれば、それはどれほど前だろう。一瞬前だろうか、それとも悠久の時が必要だっただろうか。

 ここに、巨大な問いが深淵の口を開いて、我々の前に登場した。言葉の原点とは一体何で、いつから生まれたのか、という問いである。その問いは、真っ暗な闇に満ちた洞窟のようなものだ。「おちんちんガールスカウト」などというふざけた名前からは全く想像もつかなかった、真っ暗な闇である。闇の先には何も見えない。ゴールはあるのか、それも見えない。

 目を凝らすと、深淵の洞窟の中に、小さな足跡が見える。深淵の洞窟に探検に入った勇気ある者達の足跡である。その足跡は発光している。後からやってくる洞窟の探検者達はその光を頼りに洞窟に入っていく。足跡が途切れるまで、探検者達はその足跡を辿って奥深くまで進む。そして、その先に新たな足跡を付けながら、更に進んでいくのである。時には足あとは迷っていたり、間違っていたりすることもある。探検者達はそれに戸惑いながら、時には笑い飛ばしながら、その足跡を修正しつつ進んでいく。知恵の光を後ろに残しながら。

 その軌跡は、汗と涙に満ちている。そして、それゆえに多くの人の心を動かす。洞窟の探検者よ、永遠なれ。そして「おちんちんガールスカウト」よ、永遠なれ。「おちんちんガールスカウト」が、叡智のページをまた1枚めくる。